2014年5月18日日曜日

日曜小美術館96・文学の中の芸術観②

街灯りは夜通しともっている。その明かりが朝霧の中にまず目覚めてゆく。
鈴蘭型の装飾灯が並んだひさご通、俗に「米久通(よねきゅうどおり)」―その通にある、そして公園でただ一軒の夜明かし店の、あづま総本店で牛鍋の朝飯を食べているうちに、ラヂオ体操の号令が聞こえて来た。
その頃は浮浪人達が活動小屋の絵看板を見る時間であるらしい。たれにも追われず、たれにもきたながられず、朝日を浴びて、彼らはしみじみと絵看板を楽しんでいる。

~川端康成 「浅草紅団」より~


昭和5年頃の浅草を舞台に描かれた川端作品のなかの、とても好きな場面です。

世の中は、一見とても不平等のように思えるけれど、
富めるものにも貧しきものにも、美しい朝は平等にやって来る。
そして、美しい芸術を楽しむ権利も、万人が平等に持っている。

新しい一日の始まりの刹那きらきらの朝日を浴びながら、
大衆アートを心から楽しみ、癒されているひとたちの
美しい笑顔と街の情景が、浮かんでくるよう。

この一節を読んだとき、ふと考えました。
もしも、大ショックなことが起きて家を飛び出したら(いい歳こいて家出...いいね、ファンキー(笑)!)、わたしは何処へ行くかなぁ...、と。

意地張りだから、誰かを訪ねる、ということはしないんじゃないかな?

とすると、たぶん、こんなふうに...

美しいものを、観にゆくのかもしれない。

気が済むまで何時間でも、穴があくほど観つくして、感じつくしたら...

きっと、また日常に還る。逃げずに、還れる。
そうありたい。

そしてわたしもまた、いつか...
そんな誰かを、”還してあげられる”大衆作品を、
描けるようになりたいのです。

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